佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

待ってる 橘屋草子

 おふくは自分が不幸だと感じたことはなかった。母のお千佳がいたからだ。

 日傭(ひよう)取り棒手振(ぼうてふり)を生業とする者が住む裏店では、貧困も空腹も茶飯のことであり、身体の一部のように、一生背負っていくしかないものだった。生まれてすぐに父親に、七つになる前に母親に死なれたというお千佳は、骨の髄までそのことを承知していた。留吉が寝込めば、昔の伝手を頼って一膳飯屋に働きに出たし、夜なべの内職もした。自分の境遇を嘆くことも、亭主の甲斐性を責めることもしない。ただ働き、飯を炊き、子を育て、生きていた。

 小柄で痩せたお千佳が、精一杯に羽根を広げ、自分と妹を守ろうとしている。おふくは、母親の羽根をはっきりと感じていた。それはそのまま声となり、泣きそうなほど空腹であっても、おかよを背にくくりつけて一握りの米を借りにいかなければならなくても、おふくの耳におまえは幸せ者だよと囁いてくれる。

                                         (本書P10~P11より)

 

待ってる 橘屋草子 (講談社文庫)

待ってる 橘屋草子 (講談社文庫)

 

 

 


『待ってる 橘屋草子』(あさのあつこ・著/講談社文庫)を読みました。

 

まずは出版社の紹介文を引きます。


 

「薮入りには帰っておいで。待ってるからね」母の言葉を胸に刻み、料理茶屋「橘屋」へ奉公に出たおふく。下働きを始めたおふくを、仲居頭のお多代は厳しく躾ける。涙を堪えながら立ち働く少女の内には、幼馴染の正次にかけられたある言葉があったが―。江戸深川に生きる庶民の哀しみと矜持を描いた人情絵巻。


 

 

 貧乏も空腹も茶飯のことであり、身体の一部のように一生背負っていくしかない境遇にあってなお、凜とした矜持を胸に秘め生きている市井の人を描いた短編連作。裕福な食通が通いつめる橘屋という料理茶屋。そこで働く使用人は店で供される料理など一生口にすることはない。しかし、橘屋のもてなしは客の富みへのおもねりや卑屈さではない。心を込めたもてなしは「人の値打ちは金で決まるものではない」という矜持があってこそだろう。では人の値打ちは何で決まるのか。それは「覚悟」であると著者・あさの氏はいっているように思える。生きていくうえで背負うべき荷を背負っていく覚悟、それがあるかないか、その荷が重ければ重いほど、その覚悟が試される。

 現実が厳しくとも明日を信じて頑張ろうと心から思える読後感が心地よい。読んで良かった。心からそう思う。