佐々陽太朗の日記

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『仁義なきキリスト教史』(架神恭介:著/筑摩書房)

2021/07/09

『仁義なきキリスト教史』(架神恭介:著/筑摩書房)を読んだ。

まずは出版社の紹介文を引く。

おやっさんおやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ~!」キリスト教2000年の歴史が、いま果てなきやくざ抗争史として蘇る!「あいつら、言うてみりゃ人の罪でメシ食うとるんで」エンタメで学べる画期的キリスト教史入門!


【目次】

第1章 やくざイエス

第2章 やくざイエスの死

第3章 初期やくざ教会

第4章 パウロ―極道の伝道師たち

第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影

第6章 実録・叙任権やくざ闘争

第7章 第四回十字軍

第8章 極道ルターの宗教改革

終章 インタビュー・ウィズ・やくざ

 

 

 巷間に迷信は尽きるとも、信仰に争いの種は尽きまじ。いやはや、学校で世界史、日本史を習って気づいていたことではあるけれど、改めてキリスト教その他の血塗られた歴史に唖然とし、人間の浅ましさ、残忍さ、欲深さに天を仰ぎ嘆息した。なにもキリスト教に限ったことではない。他の宗教宗派も似たり寄ったりである。本書はあくまでも小説であって学術的研究書ではない。史実や聖書に書かれていることがベースにはなっているようだが、多少のフィクションは入っている。というより、そもそもおおかたの宗教において実際にあったことと言い伝えられていることの何割が事実なのだろうとも思う。

 本書はキリスト教2000年の歴史を彼の深作欣二監督の名作映画『仁義なき戦い』風にコテコテの広島弁を使った熱いドラマに仕立て上げている。罰当たりなことかもしれないが、これがピタリと嵌まっており面白い。同じ唯一神ヤハウェを崇めるキリスト教ユダヤ教イスラム教同士がいがみ合い、はたまた同じキリスト教であっても宗派によって争いがあり、時にはそれらが流血の抗争となり、さらに大事になれば戦争にまで発展してしまったという歴史。それをやくざの血で血を洗う抗争劇になぞらえることで、妙に臨場感とおもしろみがグッと増した物語となっている。どのようになぞらえるかというと、「神=ヤハウェ大親分」「教会=組」「イエス=組長」という大胆かつ的確な表現となっており、たとえばイエスにとって「神ヤハウェ」は「大親分」であり、呼び方は親しみと尊敬を込めて「おやっさん」となる。イエスが十字架にかけられて叫んだと伝わる言葉、「Eli, Eli, Lema Sabachthan(ヘブライ語)→我が神よ、我が神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや(日本語訳)」が本書では「おやっさんおやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ!(広島弁訳)」となる。また「洗礼」といった宗教用語は「盃を交わす」といった極道用語に置き換えられる。こうしたことで時間的にも距離的にも遠い世界のことと感じられるキリスト教史が血の通った人間くさいドラマと感じられるのだ。このびっくり仰天の発想とテクニックに私は惜しみない讃辞を贈るものである。

 キリスト教の歴史が勢力拡大を意図した抗争の歴史であり、宗派拡大=信徒獲得=シノギ(収入あるいはそれを得るための手段)だという明白な事実を踏まえれば、よくぞやってくれたと拍手を贈りたい。宗教というものが上納金を集めるビジネスモデルであるという側面とやくざのシノギとの類似性に気づいた架神恭介氏の慧眼、流石である。先日、氏の『よいこの君主論』を読んでただ者ではないと思っていたが、本書を読んでその意をさらに強くした。まれに見る奇才であろう。

 こうしてみると、やくざの世界と宗教の世界との親和性は意外と高いと気づかされる。本書の一部を以下に引いてみるが、これを読むとおもわずニンマリしてしまう。

 

「イエス言うんはあいつじゃあ」

 やくざたちの先頭に立ち、イエスを指さしている貧相な男のあの姿は・・・・・・おお、イスカリオテのユダ

「ユダ、おどれがチンコロしおったんか!」

 途端にペドロはドスを引き抜くと、ユダに向かって躍りかかり凶刃を振るった。ユダはヒィと叫んで身を避けたが、すると後ろにいたやくざ者の右耳が削ぎ落とされて、大地に鮮血が散り、闇夜に悲鳴が轟いた。なおもユダを狙わんとドスを振りかざしたペトロであったが、これをイエスが背後から抱き止めた。

「やめえ、ペドロ!」

「じゃ、じゃ言うて、兄貴!」

「これも、おやっさんの考えのうちじゃけえ・・・・・・」

                      (本書P61~P62)

  推定A.D.30年、ユダがイエスを裏切った場面である。これは映画『仁義なき戦い』で兄弟分を警察に売られたときの「サツに_チンコロしたんはおどれらか!」と叫んだ名台詞にダブる。いいねぇ。

 もうひとつ、こんな場面もある。推定A.D.35年、ヘレニストのキリスト教徒がエルサレムから追放されたところはこんな風だ。

(ペトロ)「おう、おどれら今すぐ旅に出え! 殴り込みじゃ、やくざどもがカタギを煽ってぎょうさん殴り込みにきよるど! おどれら、はよ逃げえ、逃げえ!」

 ヘレニストやくざたちはこの報せに目を剥いて驚いたが、七人のヘレニスト幹部の一人、フィリッポスが片言のアラム語で必死に抗弁した。

「なにを言ようるんじゃ、おやじ! そぎゃあこと言うておやじはどないする気じゃい。危ないんはわしらもおやじも同じじゃろうが!」

「わしらはここに残るわい・・・・・・。出入りじゃ言うて、極道が一家揃って家を空けて逃げ出したら、人の笑いもんになろうが。エルサレムのシマぁ守るためにも、わしらは残らにゃいけんのじゃ!」

「おやじィ、水くさいこと言わんといてつかぁさい! おやじが残る言うんじゃったらわしらも残るけん。のう、みんな、死ぬ時は一蓮托生じゃ、のう!」

 おうよ、おうともさ、と他のヘレにストたちも呼応する。だが、ペトロは断固として叫んだ!

「こん馬鹿たれどもが! おどれら、親の気持ちも分からんのかい!」

 ペトロは両目からぼろぼろと涙を流し、口からは泡を噴き出しながら言った。

「どこの世界にのう・・・・・・我が身惜しさに子供を盾にする親がおるんじゃ! ・・・・・・ええか、よう聞けえ。万一じゃ、わしらがあの腐り外道どもに皆殺しにされてものう。それでもな、おどれらがの、他の町に逃げてくれとったら、ナザレ組は生き続けるんじゃ。たとえこの町のシマを失ってものう、お前らのような、ようできた子がおればの、いくらでも建て直せるじゃろうが、のう。おどれらはの、わしらの、自慢の子じゃけん・・・・・・のう・・・・・・」

「お、おやじ・・・・・・」

                       (本書P93~P94)

 

 

 本書を読んでイエス、ペトロ、ユダ、ヤコブバルナバパウロローマ教皇グレゴリオス七世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世、ローマ教皇パスカリス二世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世、ルターなどキリスト教史上重要な人物の振るまいを見ることで、ある程度歴史のおさらいができた。世界史の教科書ではまったく心に響かなかった歴史が、人間ドラマとして腑に落ちていく経験は刺激的なものだった。カノッサの屈辱、第四回十字軍、ルターの宗教改革のドラマは特に面白かった。

 

 宗教が権力と結びつく、あるいは逆に権力が宗教と結びつく。つまりは宗教の権力利用、権力の宗教利用とそれに付随する利権によって、お互いが力の拡大を図ってきたという歴史と純粋な(?)信仰との葛藤は語るに値する物語だ。