佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・ 中原中也詩集』(中原中也:著/佐々木幹郎:編/角川文庫)

2022/07/23

『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・ 中原中也詩集』(中原中也:著/佐々木幹郎:編/角川文庫)を読んだ。

 何年ぶりだろう、中也を読むのは。詩集を買った覚えはないのでたぶん中学生、あるいは高校生の頃だったろう。

 まずは出版社の紹介文を引く。

夭折の天才詩人・中原中也の作品がいま蘇る!まったく新しいアンソロジー

「汝陰鬱なる汚濁の許容よ、更めてわれを目覚ますことなかれ!」(羊の歌『山羊の歌』所収より)。
日本の近代詩史に偉大な足跡を残した夭折の天才詩人中原中也。30年の生涯の間に作られた詩の中に頻出し、テーマとなることが多かった三つの言葉、「生きる」「恋する」「悲しむ」を基軸に、制作年月推定順に作品を精選。代表作「汚れつちまつた悲しみに……」をはじめとする、今なお心を揺さぶられる詩篇の数々から、中也の素顔を浮かび上がらせるまったく新しいアンソロジー詩集。

 

 

 

 六十二にもなったジジイが中原中也を読むなどと・・・人に笑われそうな気がするが、たまにはそんな気分にもなるのです。青くさいなぁ。でもジジイの中にもほんの僅かに、それは今まさに燃え尽きる線香花火の散り菊の花びらのように、青さは残っているものです。

 しかしまあ、思えば年をとったもんだ。昨夜はけっこう酒を吞んだが、今朝、千の天使はバスケットボールしない。

 今も昔も好きな詩は『月夜の浜辺』。

 月夜の晩に、ボタンが一つ

 波打際に、落ちてゐた。

 ・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・

 それを拾って、役立てようと

 僕は思つたわけでもないが

    月に向かってそれは抛れず

    波に向かってそれは抛れず

 僕はそれを、袂に入れた。

 そして本書の巻頭を飾った『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・』。

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 ・・・・・・・・・・・

 言いようのない悲しみにあふれています。

『サーカス』も良い。

 幾時代かがありまして

   茶色い戦争ありました

 幾時代かがありまして

   冬は疾風吹きました

 ・・・・・・・・・・・

 そして『酒場にて』。

 ・・・・・・・・・・・

 諸君は僕を、「ほがらか」でないといふ。

 しかし、そんな定規みたいな「ほがらか」なんぞはおやめなさい。

 ほがらかとは、恐らくは、

 悲しい時には悲しいだけ

 悲しんでられることでせう?

 ・・・・・・・・・・・

 

『レゾンデートル』(知念実希人:著/実業之日本社文庫)

2022/07/20

『レゾンデートル』(知念実希人:著/実業之日本社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

末期癌を宣告された医師・岬雄貴は、酒浸りの日々を送っていた。ある日、不良から暴行を受けた岬は、復讐を果たすが、現場には一枚のトランプが―。そのカードは、連続殺人鬼「切り裂きジャック」のものと同じだった。その後、ジャックと岬の奇妙な関係が始まり…。

二年連続本屋大賞ノミネート作家、幻のデビュー作。末期癌の医師、連続殺人犯、家出少女が交錯する骨太サスペンス、衝撃が待つ!

 

 

 

 知念実希人氏を読むのはこれが三冊目。最初の出会いは『十字架のカルテ』(小学館)であった。読んだのは2年前の四月。このめちゃくちゃ面白い医療ミステリーを読むのにふさわしい状況、市内の病院で大腸検査を受けた日のことだった。腸内をきれいにする過程の三時間、そして検査結果を待ち、お医者様との面談を待つ長い長い本来なら退屈であろう時間を極上の時間に変えてくれた。他作も絶対読みたいと思いつつも、風の吹くまま気の向くまま神さまの言うとおり流れにまかせていろいろ他の作家を読んであれよあれよと二年あまりが過ぎてしまった。そしてようやく先月の末に『仮面病棟』(実業之日本社文庫)を読むこととなった。それこそ本棚に並ぶ未読本の中から気の向くままに選んだのだ。それを読むとさらに知念氏の作品を読みたくなった。それほどこの作家さんの本が面白いのだ。できれば全作読みたい。そのためにはデビュー作から順番に読んでいくべきと考え本作を読むに至った。

jhon-wells.hatenablog.com

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 本当にこれがデビュー作か? 息をもつかせぬ怒濤のごとき478ページ。ハードボイルド、ミステリー、サスペンスの要素を併せ持つ堂々たる作品である。

「一人の人間を殺して十人の人間が救われるなら、その一人を殺しますか?」 この問いかけは正義とは何か、罪とは何かに対する答を鋭く性急に迫ってくる。余命がもう3ヶ月も無いとわかっており、もう守るものなど何も無い主人公に、その答をはぐらかすことは出来なかった。末期癌という呪われた運命を背負い、人生の意味(己の存在理由)とは何かを考え悩み続けた結果、行き着いた究極の目標は「笑いながら死ぬ」こと。「死」は敗北ではない。「死」を受け容れるまでに、いかに意味ある「生」を送れるか。やるべきことをやりきり、もう思い残すことはないと満足して死ぬことが最後の目標となる。

 知念氏は主人公にヒロイズムにあふれた死に様を用意した。それはもうけっして生きながらえることのない己の命を賭して自分の一番大切なものを守るという行為。それこそが己の生きた証しであり生き様。それこそがレゾンデートル(存在理由)であった。私は泣きましたよ。皮肉屋に言わせればリアリティーのない過剰演出かもしれない。しかしフィクションにはそれが出来る、それがフィクションの良いところであろう。極上のエンターテイメント小説でした。

 

『鎌田實の人生図書館』(鎌田實:著/マガジンハウス)

『鎌田實の人生図書館』(鎌田實:著/マガジンハウス)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

読書は人生における羅針盤の役割を果たしてくれた。今だからこそ読み返したい名作ぞろい。
目次

  • 第1章 “自分好み”を追い求めてきた(カマタ好みの「物語る」日本の作家ベスト7骨太の作家たちベスト10 ほか)
  • 第2章 僕の人生を変えた、この本!(僕の人生を支えてくれた“名著”たちノーベル文学賞作品が教える「別角度の世界」 ほか)
  • 第3章 人生を彩った名画たち(カマタの好きな映画ベスト10好きな映画監督ベスト3 ほか)
  • 第4章 人生に迷ったら、映画館へ行こう(映画館の暗闇に身を沈める快楽さまざまな愛を描く映画を堪能しよう ほか)
  • 第5章 絵本は「心の癒やし」です(まちなかライブラリー鎌田文庫にようこそ!絵本の余白には人生の機微が描かれている ほか)

鎌田先生、渾身の読書案内! 「読書は人生の羅針盤の役割を果たしてくれた」実の親に捨てられ、養父に育てられた著者。貧乏な家庭の事情をわかってくれていた学校の先生が「図書館の本を何冊でも借りていっていい」と言ってくれたことが、鎌田先生の人生を変えていきました。世界を広げてくれた400を超える本や絵本、映画を取り上げ、生きること・死ぬこと、人生の面白さや心の機微にいたるまで鎌田流に読み解いていきます。本は世界で起きていることへの関心を持ったり、物事を考えるうえでの武器にもなります。さらに心の健康づくりのヒントにも。メジャーな作品からビジネス書まで、コロナ禍の今だからこそ、ゆっくりと手にとってみてはいかがでしょうか。●大災害、大恐慌、そしてパンデミックを生き抜いた宮沢賢治は、今を生きるヒントを与えてくれる●「ほっとけない作家」ベスト10●「人生なんでもあり」で生きようーー檀一雄の生き方●読書は「いま世界は」「そして自分は」を考える武器になる ……など。鎌田先生の持つ温かな心や、豊かな知恵や、深い知識や。細やかな人情や元気の源が分かった! みんな本を読もう!まずこの本から! ーーさだまさしさんページをめくるにつれ、ふと、自分が子供時代に読んだ本、若い頃に観た映画と、もう一度、あいたくなった。ーー阿川佐和子さん

 

 

 

 私は新聞や雑誌に掲載される書評を読むのが好きです。また、友人知人との会話の中で最近読んで良かった本や映画、あるいはこれまで出会った中で心に残っている本や映画について聴くとメモを取ります。そうして知った本や映画はハズレが少ないからです。それはそうでしょう。人に話したいほど感銘を受けたり、感動の涙を流したり、それについて思索に耽ったり、生きていく指針にしたりしているからにはそれなりの”何か”があるはずだからです。仮にハズレがあったとすれば、私がその価値に気づけなかったり、理解できなかったということでありましょう。

 本書は鎌田實氏の推し「本」「映画」「絵本」を紹介したものです。これは面白そうだな、これは人生で一度は読んでおくべき本だなといった本や映画にあふれている。もちろん既に読んだ本、観た映画もあるけれど、ほとんどは知らないもの、知っていても実際に読んだり観たりしていないものだ。紹介された本の中で何冊かをamazonで購入したり、図書館の予約リストに登録した。映画についてはメモを残し、これから少しずつ観ていくことにしようと思う。

 本書の中で気に入った引用があったので忘れないようにここに記しておく。

「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ」

                ドストエフスキー『悪霊』より

 

「私は自由です。だから道に迷ったのです。

                カフカ

 

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだ」

                アラン『幸福論』より

 

「『人は幸福になるために生きている』という考えは、人間生来の迷妄である」

               ショーペンハウアー『幸福について_人生論』より

 

『夜明けのM』(林真理子:著/文春文庫)

2022/07/16

『夜明けのM』(林真理子:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

パリ、ネパール、マカオと世界中を飛び回り、ラグビーW杯を生観戦。イケメン政治家の結婚を斬り、ビットコインの300倍の値上がりを夢見る…だが今回のハイライトは、何と言っても天皇陛下即位の礼への参列。新時代の夜明けに、マリコが見たものは何か?巻末に柴門ふみとの特別対談「瀬戸内寂聴先生に教わったこと」収録。

 

 

 

 林真理子氏は初読みである。お生まれが一九五四年というから、私より五歳年上。同年代でテレビなどマスコミでの露出が多かった方なので、若い頃から知っている。しかし読んでこなかった。ひとつはマスコミで触れた林氏の言行が私の心の琴線に触れることがなかったからだろう。けっして嫌っていたわけではない。ただ男の私にはやや感性が合わないところはあるように思う。有名な「アグネス論争」も、どちらかと言えば林氏側に加担したい気分ではあったものの、「お節介な人だな」という感想をもったことも否めない。

 では何故本書を読んでみようと思ったか。それはなんだかんだ言って、やはり気になる存在であったからだ。一九八六年に『最終便に間に合えば』『京都まで』で第94回直木賞を受賞なさったとき、ちょっと読んでみようかと思ったこともある。その時は同時受賞であった森田誠吾氏の『魚河岸ものがたり』を読んで、林氏のほうまで手が伸びなかった。もう少しのところだったのに。ところが最近、林氏は日本大学の理事長になられた。そうなると林氏がいったいどんな方で、どんな考え方をなさるのかが気になる。じゃあ何か一冊読んでみるかと本書を選んだのである。

 本書に収められたエッセイは『週刊文春』二〇一九年一月一七日号~二〇二〇年一月二九日号に掲載されたもの。『週刊文春』におけるこの連載のエッセイ(「今宵ひとりよがり」「今夜も思い出し笑い」「マリコの絵日記」「夜ふけのなわとび」)は二〇二〇年七月二日時点で通算連載回数が1655回に達し、「同一雑誌におけるエッセイの最多掲載回数」としてギネス世界記録に認定されたという。「今宵ひとりよがり」の連載が始まったのは一九八三年八月四日だというから、気が遠くなるほど長い間続いている連載である。ちなみに『週刊文春』には現在も「夜ふけのなわとび」が連載されており、昨日七月一五日号に「謎をとく」と題して1753回が掲載されたようだ。日大の理事長になられて、おそらくいくつか仕事を減らさざるを得ないだろうが、ギネス記録更新中のこの連載はぜひ続けていただきたいものだ。

 さて本書を読んだ感想である。読み始めてしばらくは思ったほど毒がなく肩透かしをくった感じであった。しかし、読み進めていくうちにジワジワと毒がにじみ出てくる。おそらく昨今の世情を考えて、書いたことがきっかけとなる炎上を避けるべく慎重を期していらっしゃるのだろう。しかしさすがは林氏、古くはあの「アグネス論争」に火を付けた方だけある。言わずにおられないご様子におもわず笑みがこぼれる。そうこなくちゃ。”れいわ新撰組”の某議員のこと、滝川クリステルさんがいつもスカしてる話、ご主人の悪口など、読んでいるこちらはおもわずニンマリしてしまう。ご主人のことをこき下ろしつつ赦し、なんだかんだ言って愛しておられるのだなとこちらに伝わってくるところなどほほえましい。こうしたテイストが長期に及ぶ週刊誌連載の秘訣だろう。そして見逃せないのが美智子上皇后への讃辞。林氏が思った以上に素直で良識のある方なのだと感ぜられて好もしい。

 

 

『あと十五秒で死ぬ』(榊林銘:著/東京創元社 ミステリフロンティア)

2022/07/09

『あと十五秒で死ぬ』(榊林銘:著/東京創元社 ミステリフロンティア)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

死神から与えられた余命十五秒をどう使えば、「私」は自分を撃った犯人を告発し、かつ反撃できるのか?被害者と犯人の一風変わった攻防を描く、第十二回ミステリーズ!新人賞佳作「十五秒」。犯人当てドラマの最終回、エンディング間際で登場人物が前触れもなく急死した。もう展開はわかりきっているとテレビの前を離れていた十五秒の間に、一体何が起こったのか?過去のエピソードを手がかりに当ててみろと、姉から挑まれた弟の推理を描く「このあと衝撃の結末が」。“十五秒後に死ぬ”というトリッキーな状況設定で起きる四つの事件の真相を、あなたは見破れるか?期待の新鋭が贈る、デビュー作品集。

 本作は榊林銘氏のデビュー作であり、四篇のミステリーからなっている。四篇ともに「十五秒」がキーワードとなっているところが共通しているのだが、そのすべてが読者をして「そんなバカな!!」と言わしめるほどの想定外の驚きをもってエンディングを迎える代物である。荒唐無稽な話ではある。しかし「そんなバカな!!」という言葉に込められるのは、けっして荒唐無稽な物語への非難ではない。己の想像をはるかに超えていた謎が物語に込められていたことの「歓びのしてやられた感」に呈された讃辞と言えよう。

【ここからネタバレ注意】

 四篇のうち特に秀逸なのは『十五秒』。これはヒロインが自分の身体を背中から胸へと貫通した銃弾が目の前に止まって見えているという衝撃的シーンから始まる。頭の中でそのシーンが画としてハッキリと像を結び、当然のことながら「何が起こった?」「何故?」という疑問が読者を捉え、そこにいきなり二本足で立つ大きな猫が現れる。その猫は死神でお迎えに来たという。そこからはじまる意外な展開の連続にページを捲る手が止まらなくなるのだ。

 落語に『死神』という演目がある。借金で首が回らなくなった男が死神に出会い、病人が治るか寿命が尽きるかの見分け方を教わる。名医のふりをして大もうけしたうえ、死神を出し抜いてやろうとするが・・・という話である。

 この小説『十五秒』も落語『死神』も「そんなバカな!」という話であるが、その奇想天外ぶり、展開の意外性、そしてなによりも物語としての面白さに傑出している。

 『十五秒』で自分があと十五秒で死ぬことを理解したヒロインは、まずは自分を撃った者がだれかを確認し、然る後にその犯人に一泡吹かせてやろうと決意する。たかが十五秒で何が出来よう、私はそう思った。しかしここで作者は特別の装置を用意した。なんと死神が用意した十五秒はストップウォッチのように何度も止めることが出来るのだ。アメリカンフットボールで残り時間僅かになったときに、ボールを持ってフィールドの外に出たり、タイムアウトをとったりして時計を止めるあれである。ヒロインはまず自分を撃った犯人が誰かを確認し、部屋の様子を見て取ってすぐ時計を止める。そして次の戦略戦術を練る。そしてまた次の行動に移るべく時計を動かすということを小刻みにやっていくのだ。たった十五秒しかないタイムリミットの緊張感が迫力を持って読者にも迫る。

 私の中で忘れられないミステリーのひとつになりました。ミステリー界の大御所をはじめ、レビュアーが激賞するのも宜なるかな

 二篇目は『このあと衝撃の結末が』。TVドラマの最終回を視ていて、十五秒、目を離した間に思いも寄らぬエンディングを迎えたことに納得出来ない男子中学生が再検証するという話。『十五秒』を読んだ後では緊張感に欠ける話ながら、最後まで読んでみるとなかなか凝った内容。

 三編目は『不眠症』。十五秒間の悪夢に苛まれる娘とその母親を巡る謎に迫るミステリー。時をテーマとしたSFが好物の私として好みの小説でした。

 四篇目は『首が取れても死なない僕らの首無殺人事件』。首の着脱が十五秒間だけ可能な人々が住む島で起こった首なし殺人事件ってなんやねん。そんなアホなってなもんです。いくらなんでもリアリティーがなさ過ぎて・・・と引き気味だった気分が読み進めるにつれて意外な真実が次々と明らかになり、最後まで読んだ気分は「してやられた」という満足感でした。

 デビュー作でこれほどの質を見せつけられては、次作への期待は高まるばかり。今後要チェックの作家さんの登場である。

 

『ザ・ロード』(コーマック・マッカーシー:著/黒原敏行:訳/ハヤカワepi文庫)

2022/07/04

ザ・ロード』(コーマック・マッカーシー:著/黒原敏行:訳/ハヤカワepi文庫)を読んだ。先日読んだ椎名誠氏のエッセイで大絶賛のSFである。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして―。世界は本当に終わってしまったのか?現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。

 2006年度のピュリッツァー賞受賞作、ついに文庫化。今夏ヴィゴ・モーテンセン主演映画公開。 灰が降り積もり滅びゆく世界。掠奪と殺人が横行する荒れ果てた大陸を、父と子はひたすら南へと歩いてゆく。ただお互いのみを頼りとして──。文庫版解説はいま注目を集める川端康成文学賞作家・詩人の小池昌代さんです。

 

 

 

【以下ネタバレ注意】

 描かれているのは未来の地球。終末を迎えた世界。そこでは空は暗雲がたれ込め、地は降り積もる灰に覆われ、気温が下がり続けている。植物も死に絶えていく死の世界、廃墟と化している。はっきりとした説明はないが、大規模な核戦争、あるいは巨大隕石の落下などに見舞われたのであろうと想像がつく。動植物とともに人類もまた大多数が死に絶え、また家畜や作物など食べものを生産できる環境ではない。となるとどんな様相を呈するか、想像に難くない。僅かに残る食べものを奪い合い、強者が生き残る。食物の再生産が無いのだから、敗れて死した者を勝者が喰らうということが横行する。文字どおり弱肉強食の地獄。

 そんな世界を父と子がひたすらに南をめざす。生き延びる希望を求めて。南をめざすのは、そこが単に暖かいところだというだけではないだろう。そこにまだ人が人を思いやり、助け合い、共に生きていける場所があるかもしれないという微かな期待があるのだろう。

 子は世界が変わってしまってから生まれた。まだ父の庇護が必要な年齢である。当然のことながら父は子のためならば殺人も辞さない。しかし子は、終末に生まれ落ちた子にもかかわらず殺人を、いや犬でさえ殺すことを躊躇する優しさを持つ。善なるものを心に宿し、それを捨て去ってしまうことをしない少年だ。以下は父子がある男に襲われ息子が殺されそうになったとき、父が銃でその男を撃ち殺した後の父子のやりとりである。

 一日歩くあいだ少年は黙り込んでいた。・・・・・・(中略)・・・・・・

 パパはもっと気をつけていなくちゃいけなかったな、と彼はいった。

 少年は返事をしなかった。

 なにかいってくれ。

 わかった。

 お前は悪者ってどういうのか知りたがっていただろう。今はもうわかったはずだ。ああいうことはまた起こるかもしれない。パパの役目はお前を守ることだ。神さまからその役目をいいつかったんだ。お前になにかしようとするやつは殺す。わかるな?

 うん。

 少年は頭からかぶった毛布で身体をくるんでいた。しばらくして顔をあげた。ぼくたちは今でも善(い)い者なの? といった。

 ああ。いまでも善い者だ。

 これからもずっとそうだよね。

 そう。これからもずっとそうだ。

 わかった。

 父がその男を殺すことになってしまったいきさつは、男と対峙したとき、父がなんとかその男を殺さずに、しかも自分たちの身の安全が確保できるような方法をとろうとしたのだが、その男は銃を持つ父が自分を殺す度胸がないと判断し逆に襲撃しようとしたということであった。もしも他人に対する優しさや憐憫の情がなければ、とるべき行動に制限がなくなる。つまりとるべき行動の選択肢が増え、生き延びる可能性も高まる。自分たちが生き延びることだけを考えれば、男が信頼出来ないならば、端からためらわず男を殺してしまうに如くはないのだ。

 殺さずにその場を収めることが出来ないかと考えた父は甘かったのだろうか。いや決してそうとは言い切れない。それが証拠に息子に危害が加えられそうになったやいなや、父は男を射殺した。父はあくまで息子のためにその男を殺さずに済ませられないかと考えたのだ。「パパはもっと気をつけていなくちゃいけなかったな」というのは、結果として自分が甘かったことに対する反省であると同時に、今なお純真で人らしい心を失わずにいる息子に対する警告でもある。それだけに自分たちはこれからもずっと善い者だとする二人の会話が切なく胸に迫る。

 世界の終末ともいえるこの極限状態で果たして「善い者」として生きていけるのか、人として生き延びるためにどこまでやって良いのか。どこまでやれば人間でなくなるのか、その限界は? そうした葛藤の中で己のギリギリの判断を試されながら二人は生き、南に向かう。再びここで少年と父の会話の一節を引く。

 少年は頭を彼の膝に載せた。しばらくしていった。あの人たち殺されるんでしょ?

 ああ。

 なんで殺されなくちゃいけないの?

 わからない。

 食べちゃうの?

 わからない。

 食べちゃうんだよね、そうでしょ?

 そうだ。

 でも助けてあげられないのはぼくたちも食べられちゃうからだよね。

 ああ。

 だからぼくたちには助けてあげられない。

 そうだ。

 わかった。

・・・・・・(中略)・・・・・・

 パパの顔を見るんだ。

 少年は彼に顔を向けた。今まで泣いていたように見えた。

 話してごらん。

 ぼくたちは誰も食べないよね?

 ああ。もちろんだ。

 飢えてもだよね?

 もう飢えてるじゃないか。

 さっきは違うことをいったよ。

 さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。

 それでもやらないんだね?

 ああ。やらない。

 どんなことがあっても。

 そう。どんなことがあっても。

 ぼくたちは善い者だから。

 そう。

 火を運んでるから。

 火を運んでるから。そうだ。

 わかった。

「火を運ぶ」とは何のことだろう。たとえば暗闇を照らす松明の明かり。あるいは団欒の中心となる焚火。はたまた調理をはじめとした文明。ひょっとして純真で人らしさを失わない高貴な心。そうしたもののメタファーだと私には思える。

 破滅後の世界に生まれ、それでもなお人としての高貴な心を失わない少年。彼がこの終末の世界を生き抜くことが出来たのかどうか、そしてその先に人類は再び人らしく生きることを獲得できたのかどうか、それは本書を読み終えた我々自身が想像するしかない。本書に著された終末世界と比べるべくもないが、ロシアのウクライナ侵攻での無慈悲な殺戮を現に見る我々が今、生きるということをどう考えるか、悪魔の所行を視てなお人間という者を信じ続けるのかどうか、人類の将来に希望を持ち続けるのかどうか。そうしたことが問われているように思う。もし自分がこのような極限状態におかれたらどうするか、命をかけても守るもの(けっして捨てることがないもの)はなにかという決意が問われる。

 ラストシーンで私は泣いてしまった。一昨日、昨日とドラマ『マルモのおきて』を視て泣いてばかりいたが、今日また泣いた。どうも年をとると涙腺がゆるくていけない。

 明日は映画を見てまた泣くか。

 

『仮面病棟』(知念実希人:著/実業之日本社文庫)

2022/06/30

『仮面病棟』(知念実希人:著/実業之日本社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

怒濤のどんでん返し、一気読み注意!!
強盗犯により密室と化す病院。息詰まる心理戦の幕が開く!

療養型病院に強盗犯が籠城し、自らが撃った女の治療を要求した。事件に巻き込まれた外科医・速水秀悟は女を治療し、脱出を試みるうち、病院に隠された秘密を知る―。閉ざされた病院でくり広げられる究極の心理戦。そして迎える衝撃の結末とは。現役医師が描く、一気読み必至の“本格ミステリー×医療サスペンス”。著者初の文庫書き下ろし!

 

 

 

 クローズド・サークルを舞台にした本格ミステリは私をとらえて離さなかった。文字どおり一気読みした。

 腎移植の問題を背後においた医療ミステリは単なる謎解きではない厚みを感じさせ満足感が高い。

 知念氏の本を読んだのは本書で二冊目。二年以上も前のことであったが、『十字架のカルテ』を夢中で読み耽ったことは記憶に新しい。この作者にハズレ無しとみた。これはデビュー作から順番にすべて読むべきだと考え、さっそく『レゾンデートル』(実業之日本社文庫)を発注した。

 

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