佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

秋の花

「この辺りを小学生のあなたが走っていたんですね」
「そうです」それから私は、まるで自分のことでも謙遜するように付け加えた。「山もない海もない、詰まらないところで――」
 円紫さんは、やさしい目で私を見た。
「もう何年かすると、あなたもきっと誰かをここに連れてくるのでしょうね。そして自分の歩いた道を教えてあげる。その時、誰かは、《この道はどこの道よりも素敵だ》と思うでしょう。一本の木、一本の草までね」
 私は体がしびれるようになった。
「そうなるでしょうか」
 円紫さんは神様のように頷いた。
「なりますよ」
「――《紫のひともとゆゑに》ですね」
                   (本書P220より)

 

 

『秋の花』(北村薫・著/創元推理文庫)を読みました。


まずは裏表紙の紹介文を引きます。


絵に描いたような幼なじみの真理子と利恵を苛酷な運命が待ち受けていた。ひとりが召され、ひとりは抜け殻と化したように憔悴の度を加えていく。文化祭準備中の事故と処理された女子高生の墜落死―親友を喪った傷心の利恵を案じ、ふたりの先輩である『私』は事件の核心に迫ろうとするが、疑心暗鬼を生ずるばかり。考えあぐねて円紫さんに打ち明けた日、利恵がいなくなった…。



 〈円紫さんと私〉シリーズ第三作です。第一作、第二作は短篇が数編合わさって一冊になっていたが、本書では一つの長篇構成である。そしてもう一つの変化として、本編にして初めて人が死んだということがある。このシリーズでは日常の謎を扱い人は死なないものと勝手に決めていたので些か違和感を持ちながら読んだ。いやな結末でなければ良いがとの思いを持ちながら……。

 「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度しかないことへの抗議からだ」とは作中、円紫師匠の言葉である。そう、人生はただ一度しかない。そして人はただ一度しかないその人生で天寿を全うできるとは限らないのだ。神の悪意を感じるほどの悲運もあり得る。本書で描かれるのは悪意のかけらもない人の行動が引き起こす過酷な運命。この世に神はいない。しかし人の心の中には菩薩が住むのではないか。であれば、そこに救いはある。円紫師匠は酸いも甘いも噛み分けた大人だ。難解な謎を解く明晰な頭脳だけでなく、人の心を思いやる優しさがある。北村氏は運命はときとして無慈悲であることを受け入れながら、その運命に翻弄される弱者に温かい視線をそそぐ。そして、主人公の「私」の成長を優しく見守るように描いている。結末の場面を人の親として泣きながら読みました。

 冒頭引用した一節は円紫さんと私の会話ですが、こうした何気ない会話にもしみじみとした味わいがある。そして、文学に詳しい人ならば「ははあ…」と頷きニンマリしてしまうものを織り込んでいる。古今和歌集に詠まれた歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(武蔵野に立ってみると、ふと紫草が一本生えている。何とも珍しく、貴重でいとおしいことだろう。それゆえに武蔵野はすべていとおしいものに思える)を引いているのである。そして読者はさらに源氏物語の紫の君に思いを馳せることになるのだ。もちろん、読者はそのようなことは知らずとも、この小説を充分に楽しめる。しかし、深読みしたければ引用された文献をあたってみたり、物語に登場した落語を聴いてみたりと興味は尽きないだろう。このシリーズが再々の読み直しにも耐えうる所以である。

 私は〈円紫さんと私〉シリーズを第四作『六の宮の姫君』から読んだので、次はシリーズ第五作『朝霧』である。どうやらこのシリーズは第五作までしかでていないらしい。早く読みたいが、読み終えるのがさみしい気もする。さてさて、どうしましょうか。