2023/05/26
『隼別王子の叛乱』(田辺聖子:著/中公文庫)を読んだ。
まずは出版社の紹介文を引く。
ヤマトの大王の想われびと、女鳥姫と恋におちた隼別王子は大王の宮殿を襲う。愛と権力を賭けた血なまぐさい叛乱の夢は、大王の前にあっけなく破れ、隼別は女鳥姫とともに誅殺されるが……。二人の亡き後、大王のあらたな想われ人となる女鳥姫の妹、大王を振り向かせようと策略をめぐらす大后。若者の純粋な恋と、権力をほしいままにする大王・大后の孤独と老いを対照的に描く。かつて宝塚でも上演され、劇画化もされた、「古事記」に題材に描く壮大な恋と野望と宿命の物語。〈解説〉永田萠
『記紀』に登場する歴史上実在したとされる人物が織りなす恋と権力闘争、そしてその裏にある権謀術数の物語。私は『古事記』も『日本書紀』も読んだことがないのでこの小説のもとになった物語を知らずに読んだのだが、Wikipediaで隼別王子を引くと次のような記述がある。
『古事記』・『日本書紀』に共通する物語をまとめると、以下のようになる。
仁徳天皇は雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃にしようとして、結婚の仲立ちを頼まれた。しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして復命せず、さらに皇位への野心をうかがわせる、不敬の言動が本人からも周囲からも相次いだ。このため、一度は二人の仲を許した天皇の怒りを買った。
古事記には、まず女鳥王(めとりのひめみこ)が速總別王(はやぶさわけのみこ)に、天皇を討つべしと促したことが記されている。
隼別(はやぶさわけ)王子は、時の大鷦鷯(おおさざき)大王が見初めた女鳥(めどり)の姫と恋に落ちる。大王は権力にものを言わせ女鳥を自分の元に連れてこさせ自由を奪うが、隼別は女鳥を奪還すべく叛乱を起こす。大鷦鷯王は仁徳天皇、隼別王子は仁徳天皇の異母弟である。記紀をベースに書かれた物語という意味で史実とも言える物語だが、必ずしもそうとは言えないようだ。たとえば本作中、女鳥の妹となっている矢田の郎女(いらつめ)は、八田の皇女(やたのひめみこ)だろうが、『日本書紀』では、雌鳥の皇女(めどりのひめみこ)は八田皇女の妹となっているらしい。とすると、ここは田辺氏のフィクションである。いずれにしても大昔のことであり、神話の世界と言って良いくらいのもの。事実であったかどうかなど知りようもなく、特段古代史に興味があるわけでもない。今に生きる私としてはあまり深く掘り下げるのは面倒なだけだ。権力の周辺に巻きおこった恋と嫉妬、陰謀の物語として楽しんだ。
本書を読みかけてまず違和感を持ったのは、私が持っていた仁徳天皇像と本書に書かれたそれとのギャップである。仁徳天皇といえば、炊事の煙が立っていないことを見て民の貧窮を知り、三年間、税を免除したので聖帝とたたえられている。そして本書に描かれた大鷦鷯王は国を統べるだけの大人物として描かれており、決していやらしい悪者という印象はない。だがいい年をしてうら若い娘を見初め、その娘に思い人があると知ってなおあきらめきれず自分のものにしようとする人物である。これまでにない大きさの御陵を造ろうと民や奴隷の労苦を顧みることのない人物でもある。高徳という印象とはほど遠い俗人である。今さらながらに強大な権力というものは、使い方次第で人を幸福にも不幸にもする。それは昔も今も変わらない。歴史に学ぶということは、そうしたことを知ることだろう。
物語は、隼別王子や女鳥だけでなく、大鷦鷯王や磐之媛太后、そして彼らに仕える武将や舎人や奴隷など、様々な人物の語りとしてそれぞれの視点から語られる。もしこれが隼別王子や女鳥からだけの視点で語られたなら、単なる恋物語に終わっていただろう。それではかつての少女漫画誌『りぼん』や『マーガレット』に描かれたようなロマンチックで甘ったるいだけの物語になったに違いない。その点、著者はこの物語を書きたいと思って、このかたちになるまで二十年の歳月をかけられたと言う。その歳月がこの物語を単なる悲恋ではなく、若き日に隼別と女鳥と同じような経験を持ちながらも、権力の中枢にすわりながらも老いていく人間の孤独、嫉妬、猜疑、喪失感、悲しみなどを描いたものに変えたのだろう。
この物語に著者が書きたかったのはおそらく次のようなことではないか。
「若さ自体が持つ美しさ。それはシンプルに愛なり正義なりを信じ突っ走る美しさでもあるが、同時にそれは弱さでもある。悲しいことに老獪さや狡猾さの前に敗れ去る運命にある。しかしだからこそ眩いばかりの輝きを放つ。老いた権力者は権謀術数のかぎりを尽くしてすべてを得たかに見えるが、若さを、そしてその若さの持つ輝きを、これ以上ないと思えるほどの喜びを失っているのだ」
なんだかんだ言って、これは隼別王子や住ノ江の王子が主人公のようでいて、実は大鷦鷯王と磐之媛太后の話であった。二十代、三十代に読ませるにはもったいない。四十代、五十代になってやっと、いや六十代になってから読んで味わい尽くせる小説だろう。