佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『朝日新聞への論理的弔辞 西村幸祐メディア評論集』(西村幸祐:著/ワニ・プラス)

2023/01/18

朝日新聞への論理的弔辞 西村幸祐メディア評論集』(西村幸祐:著/ワニ・プラス)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

朝日新聞は、なぜ、そこまで日本を憎んできたのか。
メディア論の第一人者が満を持して放つ評論集。
朝日新聞がすでに喪われた存在であることをえぐり出し、証明する表題エッセイに加え、雑誌などに発表したメディア批評を厳選して収録。平成日本の〈失われた30年〉の実態を、メディアを通して描く決定版、ついに発売。
私たちの手で朝日新聞の葬儀を礼に則り、しっかり執り行わなければならない。そのためにも〈弔辞〉が必要とされる。日本に悪霊が取り憑いても日本人は禊(みそぎ)と祓(はら)えで憎悪(ヘイト)を無力化できるからである。

 

 

 

 いやはや胸くそ悪いものを読んでしまった。朝日の悪行はそのおおかたを知っているつもりであった。しかし西村氏によってつまびらかにされた本書を読んで、まだまだ知らなかったものが山ほどあることに愕然とする。いや朝日だけでなく、共同通信、毎日、NHK、テレビ朝日、TBS・・・・とオールドメディアの数々の悪意ある偏向報道といったら、日々TV、新聞で見聞きするたびに血圧が上がり、頭がクラクラするほどだ。これでは身がもたないと、最近はTVの報道系番組は「BSフジ LIVE プライムニュース」と「BS日テレ 真相NEWS」の二本にしぼり、他はできるだけ見ないようにしている。新聞の購読も止めた。おかげで少しは心の平安を取り戻した。

 本書を読んで改めて怒り心頭に発したわけだが、何よりも腹立たしいのはやはり慰安婦問題に関連したいきさつである。慰安婦問題について、朝日新聞はすでに2014年8月に誤報であったことを認め一応のお詫びはした。しかし朝日新聞が最初に慰安婦問題を報じたのは1982年のこと。そしてその10年後にはその根拠となる証言がかなり疑わしいことが他紙によって明らかにされたにもかかわらず、朝日はそれを無視して2014年までさらに20年以上もの長い間誤りを認めることなく同様の報道を続けてきたという事実。そしてようやく2014年8月にその誤りを一部認めたは良いが、誤報のため取り消したという記事をその時には明らかにせず、その二ヵ月後の10月、さらに12月にと遅れて公表するという姑息なことをやったという事実。そのうえ何よりも腹立たしいのは誤りを認め取り消したという19本の記事のうち3本については今日に至るまで未だ公表されていないということだ。これは知らなかった。もしこれが西村氏の仰るとおりなら大問題だろう。

 本書の題名となった「論理的弔辞」は三島由紀夫氏のエッセイ「砂漠の住民への論理的弔辞」から拝借したとのこと。キツイ表現だが、本書を読み、さらに朝日が慰安婦問題の誤報を認めた2014年から9年経ってなお反省の色のない報道姿勢を見るに、やはり朝日新聞は終わっているといわれても仕方が無いだろう。

 次は『日本学術会議の研究』(白川司:著/WAC)を読むつもりで手元に置いているが、しばらく別のものを読んで怒りが治まるのを待たねばなるまい。さもなくばほんとうに反吐がでかねない。

 

 

『瓢簞から人生』(夏井いつき:著/小学館)

2023/01/17

『瓢簞から人生』(夏井いつき:著/小学館)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

人生の妙味が詰まった傑作エッセイ集が誕生

大人気番組『プレバト!!』でお馴染みの俳人・夏井いつきさんが綴った、愉快痛快にして心に沁みる傑作エッセイ集が誕生!

≪俳聖バショーさまは、人生を旅になぞらえたが、旅とはさまざまな人と出会い、さまざまな出来事に遭遇することでもある。我が人生において、がっぷり四つで強い影響を与えてくれた人、袖振り合っただけの人から教えられたこと等を書き留めてみるのも、還暦を過ぎ、いよいよ高齢者として歩む人生の道標となるやもしれぬ。そんなこんなの人生の徒然を記してみようと思う。≫ (本書「ケンコーさんと夏井&カンパニー」より)

夏井さんがこれまでの人生で出会った忘れ得ぬ人たちを綴った全45編のエッセイを収録。『プレバト!!』誕生の秘話、師匠となる黒田杏子さんとの出会いや父親の思い出、夢枕獏さんとの意外な交流……どの一編も、俳人ならではの観察眼と夏井さんらしいユーモアが詰まっていて深い余韻を残します。
自作の俳句をはじめ、佳句、笑句も多数紹介。俳句を作るヒントも満載で入門書の役割も果たします。

 

 

 

 本書は俳人夏井いつき氏のエッセイである。読んでいて文章が平明でムダがない。そして自分の感じたことをできるだけ人に伝えようと心を砕いていらっしゃる。さすがは俳人の最高峰と目される方だけある。

 風光る新居で探すコンセント

 本書で紹介された俳句のひとつ。句会ライブで多くの共感を得て優勝した一句だそうだ。いいなぁ。こんなに素直にしかも温かく、未来に希望を感じさせる句を詠んでみたいものだと思った。

 泪より少し冷たきヒヤシンス

 この句にまつわるエピソードが心に沁みた。地方の句会ライブを終え、たまたま入った居酒屋で、その句会ライブに参加していたらしい女性から「大好きな句があるんです。書いていただけませんか」と頼まれたのがこの句だった。どんな句かと問うたとき、その女性はこの句を詠みはじめ、途中で泣き崩れたという。人の流す泪には思い出がある。そしてその記憶は悲しみとともにある種の温もりを感じさせる。あるいは病室で生けられたヒヤシンスやひんやりとした水を入れたガラスの花器をイメージして詠まれたのだろうか。泪の温もりとヒヤシンスの冷たさの対比に人の心の中にある温かみと悲しみを感じた。

 ピンポンの鳴らぬ人生春を待つ

「六百人のピンポン♪」で紹介された句。句会ライブの臨場感がそのまま伝わってくる。夏井氏がこうした交流を心から楽しみ慈しんでいる様子がうかがえて好ましい。

 夏井氏のまわりの人、とりわけ「いつき組」の組員に対する温かい目差しが随所に感じられる。それが端的に表れたのがマイマイ君とフジミンさんの結婚にまつわるエピソード。夏井氏の最もすばらしいところはユーモアを忘れないところ。そんな夏井氏のまわりに集まる人にも明るく生きる人が多いようだ。夏井氏のまわりはいつも笑顔にあふれているのだろうなと想像するだにこちらまで幸せな気分になる。家族の話もよく出てくる。仲が良くそれぞれ皆が健勝で闊達な様は人ごとながらほほえましい。考えてみれば世間に堂々と家族の話ができるというのは夏井氏が幸せであることの証しであろう。

 夏井氏が吟行がてらの散歩途中にふと見つけ、その後行きつけになったという松山の鰻屋『七楽』が気になった。調べてみると昨年自転車遍路の最中に泊まった『たかのこのホテル』からそう離れていないところにあることが分かった。その日は『平八』という居酒屋に行ったのだが、次にあちらに行ったときには『七楽』に行こうと決めた。『平八』も良い居酒屋だったのではあるけれど。なんなら二泊して両方に行っても良い。

「雪の車列に熱の父」、「うみいづの物語」 お父さんの最期のエピソード。鰊蕎麦を口にしての嗚咽の場面。もらい泣きした。

 夏井氏は酒呑みだ。読みながら私も酒をやることにした。人にわかるかわからぬか。藪入りの日に本に酔い酒に酔い、親の記憶にホロリと泪をながす。

 

『私の幸福論』(福田恆存:著/ちくま文庫)

2023/01/16

『私の幸福論』(福田恆存:著/ちくま文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

この世は不平等だ。何と言おうと! しかしあなたは幸福にならなければ……。平易な言葉で生きることの意味を説く刺激的な書。解説:中野翠

【目次】
 まえがき
 1.美醜について
 2.ふたたび美醜について
 3.自我について
 4.宿命について
 5.自由について
 6.青春について
 7.教養について
 8.職業について
 9.「女らしさ」ということ
 10.母性
 11.性について
 12.ふたたび性について
 13.恋愛について
 14.ふたたび恋愛について
 15.結婚について
 16.家庭の意義
 17.快楽と幸福
 あとがき

 

 

 福田恆存氏の本を読むのはこれが初めてのことである。ある保守の論客が「福田恆存を読むべきだ」と仰るのを聞いたのがきっかけである。何から読むべきか迷ったが、国家や政治を論じたものよりはまずは日常のこと、処世術のようなものについて語られたものから入ってみようと本書を選んだ。

「あとがき」によると本書は昭和三十年から翌三十一年にわたって、講談社の『若い女性』という雑誌に「幸福への手帖」という題のもとに連載されたものだという。私がまだ生まれる前、それも女性誌に連載されたものだが、読んでいて全く違和感なく、しかも感じ入るところ多かった。うんうん、そうだそうだと先を急いで読みたくもなったが、そのようにせっかちに読む本ではない。それは福田氏がよくよく考えたことを一言一言丁寧に正確に、しかも分かりやすく読者に伝えようと心を砕いていらっしゃることが良く分かるからだ。

 読みどころは満載だ。というより捲る頁、頁に至言が登場する。そんな中でも私が最もグッときたところは「7.教養について」であります。

 エリオットは「文化とは生きかたである」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生きかたがあり、その積み重ねの項上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役だつとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。

 これが福田氏の知識と教養、そして教育についての認識です。さらに福田氏は次のように続けます。

 いうまでもなく、教養というものは、文化によってしか、いいかえれば、「生きかた」によってしか培われないものです。ところで、その「生きかた」とは何を意味するか。それは家庭のなかにおいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがいに「うまを合わせていく方法」でありましょう。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 一つの共同体には、それに固有の一つの「生きかた」があり、また一人の個人には、それを受けつぎながら、しかもそれと対立する「生きかた」がある。逆にいえば、共同体の「生きかた」を拒否しながら、それと合一する「生きかた」があるのです。

 そういう意味において、教養とは、また節度であります。

 頭をガーンと殴られたようでした。私が若かりし頃、今よりも少しは血の気の多かった頃、私が悶々としていたことへの答えが端的にここにあるではないですか。私が学生のうちに福田恆存に出会っていればなぁ、こんなオジサンがいたんだという心もちです。とはいえ、それでもたとえ六〇歳を過ぎてであっても福田氏に出会えたことは僥倖ととらえるべきでしょう。

 本書「幸福論」は幸福になるための方法(how to)ではなく生きかたが語られています。誤解を恐れずにいうとそれは「美しく生きること」、そしてそのための「態度」です。よい本を読みました。手元に置き、折に触れ読み返したいと思います。

 記憶にとどめるために本書にある心にとどめたい言葉をいくつか記します。

 なるほど、男女は同権であります。男だけに許されて女には許されないなどということがあろうはずはない。これは男女の間柄だけについていえることではなく、同性間についてもおなじことで、ある人に許されて、ある人には許されない、そんなことがあってよいはずのものではありません。人間は平等です。だが、現実ではそうはいかない。現実の世界では、人間は不平等です。悪いといおうが、いけないといおうが、それは事実なのです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 与えられた現実を眼をつぶって受け容れろというつもりはありませんが、それだからといって、ただ現実がまちがっているというようなことばかりいってもはじまらない。現実がどうであろうと、みなさんは、この世に生まれた以上、幸福にならねばならぬ責任があるのです、幸福になる権利よりも、幸福になる責任について、私は語りたいとおもいます。 (本書P9 「まえがき」より)

 

 人は美しく生まれついただけで、ずいぶん得をする、あるいは世間でいう幸福な生涯を送りうる機会に恵まれている

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 しかし、つぎに私がいいたかったことは、醜いと損をするということ自体よりは、そういう現実からけっして眼をそらすなということであります。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、じつは誰だって、顔の美醜が現実社会では大きな役割をはたしていることを承知しているのに、というよりは、よく承知しているからこそ、わざと眼をそむけたいという気もちが働くので、それがかえってひとびとを不幸に陥れるもとになるとおもうからです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 私は「とらわれるな」といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです。 (本書P18 「ふたたび美醜について」より)

 

 戦後の若いひとたちはよく「だまされた」ということばを濫用しました。戦争中、軍人たちに、国粋主義者たちに、町や村の指導者たちに、ことごとくだまされたという。私にいわせれば、理由はかんたんです。人相と人柄との究極的な一致という原理を無視したからにほかなりません。語っている人物の人相より、語られたことばの内容のほうを信じたからにほかなりません。 (本書P30 「自我について」より)

 

「女らしさ」ということが問題になりはじめた、そもそもの端緒は、いわゆる女性解放ということでありましょう。いままで「女らしさ」といわれてきたことがらの内容は、結局、男の身勝手から、男に都合のいいようにこしらえあげられたものにすぎないのではないか。そういう疑いが女性側から、あるいは女性に同情する男性から提出された。それが事の起こりだと思います。

 まず、私はそういう考えに疑問をもちます。なぜなら、たとえ過去の「女らしさ」が男に都合よくできているものにしても、それは同時に女にも都合よくできているものであったことを、ひとびとは忘れているらしい。「女らしさ」を守ることによって、男も得をしていたが、女も同様に得をしていたのです。このばあい現代人の眼で過去を見てはなりません。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 それならどう思ったらいいか。それぞれの時代にそれぞれの文化があり、それぞれの文化が女の「女らしさ」を造りあげ、男の「男らしさ」を造りあげていたと、そう考えるべきです。そして、両者とも、それで幸福になりえたのです。考えるべきだというより、じじつそうだったとしか思えません。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 まちがいは封建時代という過去にあったのではなく、それが滅び去った現代文化の無様式そのもののうちにあるのです。昔が悪いのではなく、今が悪いのです。あるいは昔のものを今に適用しようとすること、そのことにまちがいがあるのです。

 (本書P98~P100 「女らしさということ」より)

 

 私は、「童貞」や「処女」そのものを珍重しはしません。が、性は秘められるべきものだと確く信じております。恋愛についても結婚についても、そういう秘められた領域は、かならず無くてはならぬものです。

 (本書P141~P142 「恋愛について」より)

 

「理解」はけっして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、今後何十年、おたがいにおたがいの理解しなかったものを発見しあっていきましょうということではありますまいか。すでに理解しあっているから結婚するのではなく、これから理解しあおうとして結婚するのです。である以上、たとえ、人間は死ぬまで理解しあえぬものだとしても、おたがいに理解しあおうと努力するに足る相手だという直感が基礎になければなりません。 (本書P184 「結婚について」より)

 

 私たちのなかに信頼感回復の夢が宿るのは、最小単位である一人の男と一人の女との結びつきにおいて、わずかにそれがあるからこそであり、それから推して社会全体にもそれを期待するのではないでしょうか。人が人を信頼できるというのは、一人の男が一人の女を、あるいは一人の女が一人の男を、そして親が子を、子が親を信頼できるからではないでしょうか。それをおいてさきに、国家だの社会だの階級だの人類だのという抽象的なものを信頼できるはずはありません。それゆえにこそ、家庭が人間の生きかたの、最小にしてもっとも純粋なる形態だといえるのです。信頼と愛とが、そこから発生し、そのなかで完成しうる、最小にしてもっとも純粋なる単位だといえるのであります。 (本書P198 「家庭の意義」より)

 

 まずなによりも信ずるという美徳を回復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといっても、それは無理です。私の知っていることは、そんなものがこの世にあるものかという人たちでさえ、人間である以上は、誰でも、無意識の底では、その訳のわからぬなにものかを欲しているということです。私たちの五感が意識しうる快楽よりも、もっと強く、それを欲しているのです。その欲望こそ、私たちの幸福の根源といえましょう。その欲望がなくなったら、生きるに値するものはなにもなくなるでしょう。 (本書P222 「快楽と幸福」より)

 

一人でもいい、他人を幸福にしえない人間が、自分を幸福にしうるはずがない

 (本書P223 「あとがき」より)

 

 失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。その一事をいいたいために、私はこの本を書いたのです。

 ・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。じつは、そういう孤独を見きわめた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。つめたいようですが、みなさんがその孤独の道に第一歩をふみだすことに、この本がすこしでも役だてばさいわいであります。

 (本書P224 「あとがき」より)

 

『ホッブズ リヴァイアサン シリーズ世界の思想』(梅田百合香:著/角川選書)

2023/01/15

ホッブズ リヴァイアサン シリーズ世界の思想』(梅田百合香:著/角川選書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

リヴァイアサン』は、平和と秩序を維持するための真の政治哲学書である。

国家の役割や主権が議論されるとき、必ずといっていいほど取り上げられる政治学の名著『リヴァイアサン』。しかし、日本では「万人の万人に対する闘争」の部分のみが広く有名になり、ステレオタイプ化されている。専門家によって近年飛躍的に解明されてきた作品後半の宗教論・教会論と政治哲学の関係をふまえて全体の要点を読み直し、従来の作品像を刷新。近代政治を学び平和と秩序を捉え直す、解説書の決定版!

「人間の欲望やその他の情念は、それ自体としては罪ではない」

――近代政治哲学の創始『リヴァイアサン』――
一五八八年、イングランド南西部に生まれたホッブズ。彼は政治権力と教会権力の争いによって内乱が起きるなかで、この問題の処方箋は他国にも通用する普遍的なものと考え『市民論』を執筆。さらに教会権力批判を強めて著したのが『リヴァイアサン』である。

【目次】
序論
第一部 人間について
第二部 国家について
第三部 キリスト教の国家について
第四部 闇の王国について
総括と結論
年譜・文献案内・索引

 

 

 本書はイギリスの哲学者トマス・ホッブズ(1588年~1679年)の代表作『リヴァイアサン』の解説書である。ホッブズの『リヴァイアサン』から重要な箇所を抜粋して載せたうえで梅田百合香氏が丁寧な解説を加えるというかたちをとっている。たとえ現代の日本語に訳されていたとしても『リヴァイアサン』原文をそのまま読んだとて、私のようなぼんくらには深い理解など出来はしまい。また分からないものを、それも結構な分量の文を分からないまま読み進める苦痛と言ったらない。それを本書は重要な部分を抜き書きして、ぼんくらにも分かるように解説してくれる。非常にありがたい本である。

 本書を読もうと思ったのは去年の夏、安倍元総理の著書『美しい国へ(美しい国へ 完全版)』(文春新書)を読んだことがきっかけとなった。その本にホッブズの『リヴァイアサン』のことが次のように書いてあったのだ。

リヴァイアサン』には次のような1節がある。

 人間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあい、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間の人生は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力をふるう権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、また元の自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なのだ。

 ロバート・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならない。

jhon-wells.hatenablog.com

 

 本書の特徴はおおかたの『リヴァイアサン』解説が前半の「第一部 人間について」「第二部 国家について」に着目したもので終わっており、ホッブズがむしろ紙面の多くを裂いた後半「第三部 キリスト教の国家について」「第四部 闇の王国について」が抜け落ちてしまっている情況を改善し、その後半についても丁寧に読み解いているところです。なるほど、我々日本人は世界で起きる歴史的事象に如何に宗教が深く関係しているかを見落としがちです。特に欧米におけることがらをキリスト教の影響を知らず(あるいは無視して)理解しようとするととんでもない誤解をしてしまう危険がありそうです。ホッブズが『リヴァイアサン』に「教会的かつ政治的国家の質料、形相および力」という副題を与えているように、本書を読み解く上で、宗教論や教会論、そしてそれらと政治哲学との関係を論じた後半を読まねば中途半端です。政治と宗教の関係をどう考えるべきかというのはなにもホッブズの生きた16世紀、17世紀だけではなく、現代においても重要なことだというのは確かです。

 さて、本書の感想です。ひと言で云うと、大変勉強になるありがたい本だということ。分かりやすい例を挙げると、上に書いたようにホッブズが『リヴァイアサン』につけた副題は「教会的かつ政治的国家の質料、形相および力」なのですが、私は”質料”や”形相”という言葉の意味すら知りませんでした。私だけでなく一般には正確に知っている人の方が少ないのではないでしょうか。そうしたことがらを本書で解説してくれているのはありがたい。本書を読んで「自然状態(万人の万人に対する闘争)」や「自然法(あなたが自分自身に対してしてもらいたくないことを、他人に対してするなに要約)」だけでなく、宗教的権威に対する痛烈な批判をも読み知ることができた。深い理解ができたかどうかあやしいものだが、私なりに考えるところの多い読書時間でした。

『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』(藤森かよこ:著/KKベストセラーズ)

2023/01/08

『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』(藤森かよこ:著/KKベストセラーズ)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

死ぬ瞬間に、あなたが自分の人生を
肯定できるかどうかが問題だ!

学校では絶対に教えてくれなかった!
元祖リバータリアンである
アイン・ランド研究の第一人者が放つ
本音の「女のサバイバル術」

 

ジェーン・スーさんが警告コメント!!
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これは警告文です。本作はハイコンテクストで、読み手には相当のリテラシーが求められます。自信のない方は、ここで回れ右を。「馬鹿」は197回、「ブス」は154回、「貧乏」は129回出てきます。打たれ弱い人も回れ右。書かれているのは絶対の真実ではなく、著者の信条です。区別がつかない人も回れ右。世界がどう見えたら頑張れるかを、藤森さんがとことん考えた末の、愛にあふれたサバイバル術。自己憐憫に唾棄したい人向け。  
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あなたは「彼ら」に関係なく幸福でいることだ。権力も地位もカネも何もないのに、幸福でいるってことだ。平気で堂々と、幸福でいるってことだ。世界を、人々を、社会を、「彼ら」を無駄に無意味に恐れず、憎まず、そんなのどーでもいいと思うような晴れ晴れとした人生を生きることだ。「彼ら」が繰り出す現象を眺めつつ、その現象の奥にある真実について考えつつ、その現象に浸食されない自分を創り生き切ることだ。
中年になったあなたは、それぐらいの責任感を社会に持とう。もう、大人なんだから。 社会があれしてくれない、これしてくれない、他人が自分の都合よく動かないとギャア ギャア騒ぐのは、いくら馬鹿なあなたでも三七歳までだ。(本文中より抜粋)

 

 

 本書が女性向けに書かれたことは題名からして間違いのないところ。題名にインパクトがあるので中身が気になったとしても普通は読まない。しかし私が共感するところが多いある政治学者が本書を褒めていらっしゃったので読んでみることにした。

「現代という時代は、ほとんどの人間に敗北感を感じさせる。現代という時代が人間に要求するスペックは高すぎる」 これは本書の「まえがき」の導入部に書かれた一文である。確かにそんな気がする。それ故かどうか定かでないが、世の中には敗北主義的なグチが満ちあふれているように見える。しかし本書の立ち位置はどうやら「グチ言ってんじゃねーよ! 政府だの社会だの人に頼ってねーで、自分で幸せを掴め!」というところのようです。いいじゃないですか。気に入りました。
 その立ち位置はひと言で云うと「お花畑に住むな」ということ。藤森氏の言葉では「現実と幻想をゴッチャにしないこと」だとし、この事に常に留意せよという。例として「カネがないのに、カネの合法的調達もできないのに、カネがないとできないことをしようとするな」という。つまるところ馬鹿でブスで貧乏で生きていかねばならない現実から目を背けることなく、現実主義者として生きよということだろう。偽善的な気休めなんぞ書かないという著者の態度は好もしいと私は感じる。
 Part1は苦闘青春期(三七歳まで)である。まず最初に「容貌」について書かれている。簡略にまとめると「人間は外見でなく中身だ」というのはファンタジー。中身を充実させるには時間がかかる。手のつけやすい外見の矯正のほうから処理すべき。まず「見やすくなる」ことを考えよという。事ほど左様に以下「仕事」「セックス」「運」などについてどう考えどのように生きるべきかが身も蓋もないほどはっきりと述べられる。そこに貫かれる考え方の基本は「世の中は不公平にできているということを、たとえ受け入れがたくても厳然たる事実として直視して現実的対処をせよ」ということ。中でも「国語力をつけよ。そのために本を読め」と「外国語をひとつ身につけよ」というのは至言であろうと思う。
 Part2は過労消耗中年期(六五歳まで)。まず身も蓋も無いことではあるが、人生の勝負はこの時期にさしかかるまでにほぼ決まっているという前提から入る。二〇代、三〇代(いやほんとうは子どもの頃から)どれだけ頑張ったかの結果が四〇歳以降に出るからである。しかしだからといってゲームオーバーではない。それでも生きていける。自分なりのゲームを粘り強く継続しよう。覚悟をあらたにせよというのがこの時期の生き方だと説く。「人生に突然の飛躍や覚醒はない」 現実とファンタジーをごっちゃにしてつまらぬ詐欺や宗教に騙されず、ただ目の前のすべきことに集中して地味に淡々と努力するしかない。恵まれた他人と自分を比較しても仕方がない。四の五の言わずに賃金労働に勤しめ。それほど己を鍛えてくれるものはない。あなたはあなたの人生を生きればよいという。そしてこの年代にあってもやはり本を読むことの重要性で締めくくられている。そしてその対象分野を拡げよと。
 さていよいよPart3は匍匐前進老年期(死ぬまで)である。著者はこの老年期こそ本気を出せ、最後の本気をという。これからの時代、高齢者は社会の大きな負担となる。もっとはっきり言えばみんなから邪魔にされるということ。特殊詐欺の餌食となる危険性も増す。また否応なしに直面する身体的老化への対処として身体メンテナンスが必要となるが、一番の問題は口腔と歩行だという。口腔の問題の一番は舌の位置だそうである。低位置にある舌を上口蓋にぴったり密着するよう鍛える必要があるという。ほんとうかな。検証してみる必要がありそうだ。そしてもう一点の歩行能力の保持。これはよく理解できる。それは身体の問題だが、頭のほうは読書や情報収集をさらに継続し学びなおせということである。それはその行為があなたを世界から切り離さないからだという。なるほど。老いたからといって世間に対し無責任になってはいけない。老いてはほんとうの意味の教養を持たねばならぬ。「ほんとうの意味での教養とは、多くの人々の努力で支えられ維持されている世界に対する愛と責任を感じることだ。教養とは、他者の生に対する想像力を持つことだ。他者に対して自分ができることは惜しまず実行し、自分にできないことや、してはいけないことは抑制することだ」 けだし至言というべきだろう。そしていよいよ最後の準備。断捨離、高齢者施設の検討、手配、孤独死の作法まで。老年期もやることがいっぱいだ。

 男の私にも肯けるところがたくさんありました。藤森氏の仰る「ほんとうの意味での教養」を身につけるべく、もう少し、いやもっともっと頑張らねばと己を叱咤した次第。

 

『智に働けば 石田三成像に迫る十の短編』(山田裕樹:編/中島らも・松本匡代・南條範夫ほか:著/集英社文庫)

2023/01/05

『智に働けば 石田三成像に迫る十の短編』(山田裕樹:編/中島らも・松本匡代・南條範夫ほか:著/集英社文庫)を読んだ。三成ものである。私の大好きな石田三成を描いた十の短編を収めたアンソロジーです。

 まずは出版社の紹介文を引く。

“日本一の嫌われ者”石田三成とは、いかなる人物だったのか―。豊臣秀吉の下、随一の頭脳派武将として辣腕を振るった彼は、死後四百年経った現在でも評価が大きくわかれる。秀吉との出会い「三献茶」から関ヶ原での敗北に至るまで、十人の実力派作家の作品を時系列に並べて歴史的評価の変遷を辿る、画期的な短編アンソロジー。あなたの三成像を変え、新たな小説の楽しみ方が発見できる一冊!

 

 

 小才子、策士、奸賊、横柄、傲慢、陰険、理屈屋、戦下手、算盤侍、陋劣、小賢し・・・。三成につきまとう悪意のあるレッテルの数々。しかしそれはほんとうなのか。その程度の男に西国の名立たる大名を結集して「関ヶ原の戦い」に挑むことができるだろうか。否。江戸時代初期の徳川の御用学者の捏造したイメージに引きずられた誹りの類いであろう。いわゆる「勝者の歴史」というやつだ。そうした思いが本書の編者・山田裕樹氏にあってこの本が生まれた。私も心を同じくする者である。ただ「石田三成復権」には成功しているとは言い難い。それが少々残念ではある。

 収められたのは牡蠣の十編。

  1. 気配り     中島らも/著    
  2. 美しい誤解    松本匡代/著    
  3. 残骸     南條範夫/著    
  4. 仙術「女を悦ばす法」     五味康祐/著    
  5. 石鹼     火坂雅志/著    
  6. 義理義理右京     吉川永青/著    
  7. 戦は算術に候     伊東潤/著    
  8. 佐和山炎上     安部龍太郎/著    
  9. 我が身の始末     矢野隆/著    
  10. 結局、左衛門大夫は弱かったのよ     岩井三四二/著

『気配り』(中島らも)は落語でいうところの「つかみ」。軽いといえば軽いがアンソロジーのはじまりとして小粋。

『美しい誤解』(松本匡代)は佐吉(石田三成)と紀之介(大谷吉継)はともに少年の頃、近江国の観音寺で学問をしており知り合っていた。そこへ秀吉がふらりと訪れて・・・と、有名な「三献茶」のエピソードに大谷吉継もかかわっていたという話。事実かどうかはあやしく松本氏の創作と考えた方がよさそうだがなかなかよい話。さっそくこのエピソードが収められた『石田三成の青春』(サンライズ出版)を購入し読むことにした。

『残骸』(南條範夫)は信長が実は本能寺の変から逃れ生きていたという意外性をもった話。あやしい話ではあるが、ひょっとしてそんなことも・・・と楽しませてくれる。

『仙術「女を悦ばす法」』(五味康祐)は読み物としておもしろいかもしれないが、些か下品。好みではない。

『石鹼』(火坂雅志)は三成の恋愛秘話。「あなたさま(三成)の仰せになることは、いつでも正しい。理にかなっております。それでも、人は筋道の通らぬ思いにとらわれることがあるのです」「何を言っておるのか、わしにはよくわからぬ」「そう、あなたさまには、おわかりにならないでしょう。だから、人に憎まれる」というやりとりが悲しい。

『義理義理右京』(吉川永青)は忍城水攻めの際、堤防高築に携わった佐竹右京大夫と三成の親交ものがたり。主人公は佐竹右京大夫であるが、三成の考えが常人の考えのおよばぬほどの深さを持っていたが故に誤解されること、実は情に厚い男であったことなどが描かれておもしろい。

『戦は算術に候』(伊東潤)は三成自身は有能であるのに、道具(周りの者)を使いこなせなかったがために・・・という話。

佐和山炎上』(安部龍太郎)は関ヶ原合戦のあと佐和山城が落ちる様子を三成の三男である八郎を中心に描いた作品。人の品格は滅びの中に表れる。本書に収められた十編のなかで一番気に入った作品である。

『我が身の始末』(矢野隆)は理に優る三成がなぜ関ヶ原合戦に敗れたのかを「理だけで人は動かぬ」ということに求めた作品。確かにそのとおりだろう。世の中、筋の通らぬ事ばかり、訳のわからぬことをやる者は多い。それが人の世というものだろう。いやしかし、だからこそ私は三成が好きなのだ。その足りないところがいとおしいのだ。三成の世界が美しいと思うのだ。

『結局、左衛門大夫は弱かったのよ』(岩井三四二)は昨年10月21日に読んだ『三成の不思議なる条々』の一部。ここでの論評は割愛する。

jhon-wells.hatenablog.com

 

 

 

 

『塞王の楯』(今村翔吾:著/集英社)

2023/01/02 

『塞王の楯』(今村翔吾:著/集英社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

【第166回直木賞受賞作】

どんな攻めをも、はね返す石垣。
どんな守りをも、打ち破る鉄砲。
「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、究極の戦国小説!

越前・一乗谷城織田信長に落とされた。
幼き匡介(きょうすけ)はその際に父母と妹を喪い、逃げる途中に石垣職人の源斎(げんさい)に助けられる。
匡介は源斎を頭目とする穴太衆(あのうしゅう)(=石垣作りの職人集団)の飛田屋で育てられ、やがて後継者と目されるようになる。匡介は絶対に破られない「最強の楯」である石垣を作れば、戦を無くせると考えていた。両親や妹のような人をこれ以上出したくないと願い、石積みの技を磨き続ける。

秀吉が病死し、戦乱の気配が近づく中、匡介は京極高次(きょうごくたかつぐ)より琵琶湖畔にある大津城の石垣の改修を任される。
一方、そこを攻めようとしている毛利元康は、国友衆(くにともしゅう)に鉄砲作りを依頼した。「至高の矛」たる鉄砲を作って皆に恐怖を植え付けることこそ、戦の抑止力になると信じる国友衆の次期頭目・彦九郎(げんくろう)は、「飛田屋を叩き潰す」と宣言する。

大軍に囲まれ絶体絶命の大津城を舞台に、宿命の対決が幕を開ける――。

 

 

 今村氏の小説は「羽州ぼろ鳶組シリーズ」で読むようになり、『八本目の槍』、『童の神』と読んできた。ハズレなし。おもしろい。どの作品も読んでいて気分が高揚し夢中になってしまうレベルであった。それは本書でも同じ。しかも読み物としての面白さは群を抜いている。さすがは直木賞を受賞しただけある。

 物語の舞台は1573年の織田信長朝倉義景の間で起こった一乗谷城の合戦から1600年の関ヶ原の戦いまで。つまり戦国時代であり、物語のクライマックスは関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる大津城の戦い(1600年10月13日から同10月21日まで)である。籠城戦を描く中で片や石工集団の穴太衆、片や鉄砲職人集団の国友衆に焦点をあて、城の守りと攻めのせめぎ合いをドラマチックに描く。穴太衆の頭として「塞王」と呼ばれる飛田匡介は絶対に破られることのない最強の楯としての石垣を作りたいと願う。国友衆の頭である国友彦九郞は逆に最強の矛として一日で十万、百万の兵を殺せる砲を作ろうとする。もしそんな砲を作ることができれば、そしてそんな砲を双方が持つことができれば、戦う両者ともが消滅するまで戦うことになるので結果としてどちらもが使おうとしないであろう武器である。「泰平を生み出すのは、決して使われない砲よ」というのが彦九郎の目指す理想なのだ。どちらもが戦のない泰平を願うが、実際の手段は真逆になるという矛盾(まさに矛と盾)がこの物語の中心に大きな問題として横たわっている。現代でいう専守防衛核兵器の抑止力に通じる問題である。当然大津城の戦いで相見えた匡介と彦九郎は己の理想とするものを手に入れた訳ではないので、どちらの方が正しかったという結論が出たわけではない。ただ籠城戦という生死がかかった極限状態の中で、どう行動するか、どう決着をつけるか、そこにある苦悶と決意が読者に迫ってくる。その読み応えは半端ではない。そしてその結末にある歴史的な事実は物語(ファンタジー)に酔う読者に冷や水を浴びせる。つまりいくら楯を強くしようと戦がなくなるわけではない。圧倒的な兵力を前にして、籠城戦はある一定期間持ちこたえることはできてもいつかは落ちるときがくる。そしてその前に、戦をするしないは自分たちの側が決めるのではなく、自分たちの外側が決めるという事実。どんな兵器を使い、どのように攻めてくるかも相手が決めるという事実。それが現実であり、歴史がそれを物語っているのである。「塞王」という平和を願うヒーローを熱く思い入れたっぷりに描きつつ、戦の現実を冷徹に描いた今村氏の筆力に感服した。

 余談ではあるが、武勇であること、雄々しくあることを求められるこの時代の大名にあって、大津城主・京極高次のような頭領の存在に光を当てた今村氏の手腕にも喝采をおくりたい。『八本目の槍』で描かれた石田三成もそうであったが、時の権力者に媚びた御用学者による歴史観や、後世にあってそれを鵜呑みにして書かれた小説などによって不当に貶められている歴史上の人物に今村氏は別の光を当てる。高次は妹・竜子が秀吉の側室になり、また京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(姉は淀殿)を正室としたため、自身の功ではなく、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠って出世したといわれ、陰で蛍大名と囁かれた人物である。しかし高次が実は家臣や領民の命と平安を旨とし、自分の対面を二の次にした人物であったとして描かれている。蛍大名との侮蔑的なレッテルを貼られた人物のほんとうの姿をかくも魅力的に描いた今村氏に拍手を贈りたい。

 2023年の初読みが本書であった僥倖に感謝。