佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

そんなバカな! - 遺伝子と神について

 最初にお断りしておかなければならないのだが、この本は「「進化の歴史」や「科学と宗教をめぐる問題」を扱うものではない。ましてやファンダメンタリストを批判する本でもない。私が関心をもっているのは、たとえば次のようなことである。

 人間は時々頭に血が昇ってしまい、普段なら明らかに変だと思うようなことでも正しいと信じてしまうことがある。特に周囲が「そうだ、そうだ」と言っているとますますその気になってくる。やがてそう信じる集団とそうは信じない集団(だからと言ってこちらが正しいとも限らない)との間に対立が生じ、ときには殴り合いのケンカや武力行使にまで発展する。そういうことに夢中になっている人々は皆異様に元気で、たとえば相手陣営が何か失策でもしでかそうものなら、笑いが止まらなくなってしまう。こんな幸福が他にあるだろうかと感ずるのである。

 人間は賢いはずなのに、時々とんでもなくアホになってしまう。それはなぜか。これが今のところ明らかにできるこの本のテーマである。

                            (本書P18~P19 プロローグより)

 

 

 

 『そんなバカな! - 遺伝子と神について』(竹内久美子・著/文春文庫)を読みました。竹内氏のご著書を読むのは初めてです。

 非常に示唆に富んだ本です。随所にハッとさせられ、ウーンと唸らされるところが溢れています。

 人間たるもの所詮は利己的遺伝子<セルフィッシュジーン>と利己的ミーム(両方併せて利己的自己複製子<セルフィッシュリプリケーター>)の乗り物<ヴィークル>なのであって、どうあがこうともその事実からは逃れられない。これが本書に一貫して流れる考え方です。我々が何らかの行動(それが他から賞賛されようと、軽蔑されようと、生き延びようとする行動であろうが、破滅の行動であろうが)をとろうとするとき、すべては遺伝子によってプログラムされたものなのだと。それを理解した今、私の世界を見る目は全く変わってしまった。

 巻末の「美人論」も非常におもしろい。

 

 いくつか気になるセンテンスを引きます。

 


 

 何がセルフィッシュ(利己的)なのか―――それはジーン(遺伝子)である。では、生物とはいったい何なのか―――生物は遺伝子が自らのコピーを増やすために作った生存機械にすぎない。(P51)


  かつてK・ローレンツはオオカミの騎士道精神を賛美した。争いで分が悪くなった方が急所である首筋を差し出すと相手の攻撃行動が抑制されるというあの話だ。ローレンツは、これぞ種の繁栄、これぞ種の利益のための行動だと絶賛した。彼はオオカミの一頭一頭が種が滅んでしまうことを懸念して武器の使用を控えるのだと考えたのである。

 しかし、ゲームの理論が示すところによれば、オオカミは自分が傷つくのを恐れて武器の使用を控えるということになる。儀式化された攻撃行動も、ひたすら自分が負傷したくないという、最初から最後まで利己的な理由によって引き起こされているのである。(P142)


 

「核」による武装がかえって争いを回避させるという論には確かに一理あるのである。(P144)


 ひょっとすると、これだけは人間特有と言っていいかもしれないものが一つある。自分を騙すという能力である。(P149)


 

姑による嫁いびりの行動の意味を探るには、やはり利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)の観点を導入しなければならない。姑が嫁をいびることが姑をとり巻く繁殖行動とどう関わっているのか、あるいはそのことでなぜ彼女の「嫁いびり遺伝子」が増えるのかと考えてみなければならない。(P151)


 

 要するに、乗り物(ヴィークル)がどういう文化をもつかによって、遺伝子はコピーの増減に関して多大な影響を受けるのである。同様に文化も遺伝子も強く依存している。遺伝子と文化とは、このように互いに作用を及ぼしながら共進化を遂げてきているのである。今日我々がもっている文化は、一見そうは見えなくてもなにがしか遺伝子のコピーを増やすことに関わる性質を持っているはずである。(P241~P242)


 

 我々は何かの分野で成功を収めたり、世間から立派な人間であると賞賛されたり、あるいはその人なりに充実した人生を送るというような具合には必ずしも設計されていない。個々の人間は利己的自己複製子(セルフィッシュレプリケーター)の乗り物(ヴィークル)として初めて平等である。遺伝子は乗り物(ヴィークル)の上に乗り物(ヴィークル)を作らないし、乗り物(ヴィークル)の下に乗り物(ヴィークル)を作らないのである。(P250)